2015年12月24日木曜日

その3

守護町勝瑞散策コース                                         
遍路道の地蔵


10番目、遍路道の地蔵、

撫養街道沿いに建てられた道標地蔵で

台石には「宝暦十一辛巳七月
左へんろ道為
奉造立地蔵尊勝瑞講中」
と刻まれています。








正貴寺跡(国指定史跡)

子字名は正喜地、目の前のお宅の屋号は「寺門」と言うそうです。
発掘調査の結果、大量の瓦や礎石建物跡、五輪塔が出土したそうです。








七堂伽藍を持つ寺院で、
三好氏の祈願寺だったそうです。




























阿弥陀橋の板碑(町指定有形文化財)

板碑とは鎌倉時代中期から流行した供養塔
すなわち石製の卒塔婆。

この板碑は室町時代のもので、
緑色片岩製で、
正面には阿弥陀如来を表す、
梵字(キリーク)、
「南無阿弥陀仏」が刻まれています。







観音寺

シルクハット地蔵















この地蔵は「僊人(せんにん)さん」と
よばれ長い間信仰されてきたそうです。

顔のつくりはよく見ると日本人とは思えず
ヨーロッパ人種だという人もおり、
戦国期に勝瑞城下でキリストの布教に
あたったポルトガルの宣教師だと
いわれています。







以上全13ヵ所、距離は5.6kだそうだけど倍の10kは歩いた感じ。

時間で昼12時までの3時間、ヘトヘトです。
















2015年12月20日日曜日

その2

守護町勝瑞散策コース

コースの紹介、前回は5番の地福寺まで



















大麻比古神社や1番札所霊山寺へ抜ける大麻街道に

建てられた道標で、右へ指差した下に

「大麻宮 霊山寺」と書かれています。

ここから霊山寺まで3.5km、

この道標の側面には

「文政十三庚虎五月建立」と書かれています。


南陽神社

細川澄賢が阿波入国とともに祀った神社。

土御門上皇の行在所が勝瑞にあったという説が

あるが、勝間ヶ淵に遊ばれた上皇は菊花を愛され

この付近に南陽離宮を造営したとされています。







王塚の地蔵尊

この地蔵は橘春庵の寄進によるものといわれ

春庵は人情に厚い名医で、貧しい人々を救ったり、

社寺に多くの財産を寄付したそうです。

また蜂須賀家の御典医でもあったそうです。




撫養街道の街道沿いに建てられた道標で

「宝暦十一辛巳七月 左へんろ道為 奉造立
 地蔵尊勝瑞講中」と刻まれています。








名目はこれで4.2km、しかし実際はこの倍以上は歩いたかも。

2015年12月17日木曜日

その2

守護町勝瑞散策コース

きっかり9時に勝瑞館跡を出発、全行程7kのコースだけど、

歩くのは久しぶり、完歩できるかな~。

コースは
1. 勝瑞館跡を出発
2. 勝瑞城跡
3. 持明院跡
4. 見性寺跡
5. 地福寺  細川澄賢墓、石地蔵
6. 大麻比古神社、霊山寺への道標
7. 南陽神社
8. 王塚の地蔵尊
9. 遍路道の地蔵
10.遍路道の地蔵
11.正貴寺跡
12.阿弥陀橋の板碑
13.観音寺  僊人さん、シルクハット地蔵

全行程 : 約5.6km

一番目は勝瑞城跡、といっても県道はさんですぐ前だけどね。
勝瑞城跡入口(国指定史跡)

勝瑞義家碑(町指定史跡)
















二番目は日亜科学グランドすぐ南の持明院跡、

別名知妙庵と呼ばれ「阿州三好記大状前書」に書かれている「持明院」と考えられているそうです。

鎌倉末から室町初期の五輪塔と宝篋印塔




説明しているのは、藍住町教育委員会の方、

分りやすい説明でした。










三番目は見性寺跡。

見性寺跡



ここは天文22年(1553)の勝瑞騒動で

三好実休に追い込まれた

細川持隆が切腹した場所。








四番目は地福寺。

地福寺

文治年間(1185~1190)の創建で

その後荒廃したが、

玄賀上人により再興。

「ぽっくり寺」ともいわれています。








細川澄賢の墓、五輪塔


永正5年(1521)が記されています。













石地蔵


大永7年(1527)が記されています。













ここでパンフでは1.3kだけど実際は途中ウロウロしたので、倍以上は歩いたね。

あとはまた後日。

2015年12月14日月曜日

藍住町教育委員会主催、「藍住町歴史散歩」に参加しました。

この歴史散歩は

・藍の故郷散策コース
・荘園散策コース
・城跡巡り散策コース
・守護町勝瑞散策コース

の4コースあり今回は守護町勝瑞散策コースです。

守護というのは室町幕府が国ごとにおいた地方役人の職名で、幕府の有力家臣が任命されました。阿波に入ったのは三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)に移り住んで在名を名乗った氏族である細川氏で、細川和氏(かずうじ)・細川頼春(よりはる)で、最初土成町の秋月に守護所を構えましたが、そのあと勝瑞に移転したそうです。
細川和氏から数えて3代目の頼之(よりゆき)は、将軍足利義満の後見役として幕府の管領に就任し、管領細川家の祖となりました。阿波守護家は管領細川家に最も近い系統として重んじられたそうです。
勝瑞は当時大変経済力の発展した都市で、住吉大社式年の造営に関し、金物用途拠出の割当は住吉大社領中最高額であり、勝瑞の経済力の高さがうかがえます。

朝8時30分、勝瑞館跡に集合、参加者はまぁ20人前後位と思ってたらなんと50人は越えています。

















枯山水庭園の復元会所です
















全行程7kの散策です。

また散策の模様はまた後日あらためて。

2015年12月10日木曜日

我が徳島には城が無い、

昔の徳島城を伺い知るのは明治初期に

撮られた古写真一枚のみ。













そこで、ヨソ様の城写真を集めて、

古画像を参考にフォットショで屋根やいろんなパーツを

貼りつけてみました。

中央が大手門、虎口の上が多聞櫓、右が月見櫓、左に太鼓櫓

屋根の形はヨソ様の城を拝借してるので実際とは多少違うけど

まぁ、こんなモンかな。

外壁は実際、総下見板張だから26万石の大名としては地味だねぇ~。

徳島城再建も議会でよく議題に上がってるようだけど

いつも立ち消え、なんとかして欲しいけど

私の生きてるうちは無理な感じ。